世の中には数学以外に「絶対」というものは存在しないという考え方があります。
自分がここに居るのも、何か別の存在と認め合って存在しているという事になります。
つまり、僕が
「今ココに居るよー」
と言っても誰も聞いている人が居なかったらそこに居たかどうか証明できません。
さらに、地面も空も空気も空間もなかったら「ココ」という存在がなかったとしたら、やはり存在はしないでしょ、という事になります。
数学以外ですから、思想や感情さえも相対的に存在している事になります。
相対とは、
「他との関係の上に存在あるいは成立していること」とあります。
世界一のデザインというものを考えた時、世界一というのは誰かが決めなければ存在しません。
世界二というのがなければならず、世界のビリというのもなければいけません。
一番という言葉がすでに相対的であります。
ところが、世界のビリを一番だと思う人も居るわけですね。
デザインとは
「実用面などを考慮して造形作品を意匠すること」
「目的をもって具体的に立案・設計しること」
とあります。
飛躍しますが、自分がいいと思っているならば、それが世界一でも構わないのです。
という事は、我々デザイナーはより多くの人に認められればいいデザイナーという事になりそうです。
話は変わって、昔の権力者は自分のいいと思う考え方で様々なものをデザインしてきました。
ピラミッドや万里の長城や金閣寺など本当に様々。
多くの人がこういった権力者のセンスを良しとし、認めています。
評論家がいいというからイイという人も多そうです。
過去の権力者が違うセンスだったとしても、我々が良しとする対象はやはりその権力者のセンスでしょう。
つまり、我々のセンスなんて脆い、表面上のものだということです。
では、過去の権力者が脆くないセンスの上に立っていたかというと、この人たちも少なからず先人のセンスを汲んでいます。
突き詰めていくと、分かっているところでは原始人の壁画なんかがセンスのハシリかもしれません。
みーんな、原始的な壁画から派生しているものと考えられます。
でも、でもですよ。
原始人も現代人も夕日がキレイだと思うし、花も美しいと感じるし、ライオンはたくましいと感じるのは微生物だった時から本能的に育まれたセンスがあるのだと思います。
それは、単純な感情「危険」「眠い」「空腹」などから起こったセンスで
「食べる為にこうしなきゃいけない」
という実務に乗っ取った動きをし、工夫し、進化してきたのです。
その最新バージョンが「ヒト」。
絶対的に一番というならば、この世で一番優れたデザインは「ヒト」のそれであって、「ヒト」が生み出すものではありません。
さらに言えば、真に実用的なデザインは生死と直結しており絶対的なフォルムを完成させると言う事だと思います。
僕は自然の中にあるデザインと向き合って今後世界一のデザイナーを目指してみたいと思います。